ブリコルールを目指して

 先日のグループ会議で、現在全国的な広がりを見せ始めている「子ども食堂」の取り組みをエルムグループでもやってみたいという提案をした。入念なリサーチをして運営体制を構築して定期開催を提案。しかし、参加メンバーの反応は予想よりも薄い。この提案には全員が諸手を挙げて賛成してくれると思っていた私には意外すぎるリアクションだった。しかしほどなくその原因は判明した。それは私の提案に「隙間」がないからであった。「これが完成品ですがどうでしょう?」という提案を受けた場合、それを眺めることしか許されない相手の答えはふたつに絞られる。「yes or No」。そこに「こうしたらもっと良くなるんじゃないか」とか「こういうところには賛成しかねる」という提案が入り込む隙間はない。それは自身が主体的に関わる余地がないという判断をせざるを得ないということでもある。

 これは私がよくやってしまう失敗だ。ゼロから設計図を描き、思い描いた通りの作品をつくりあげ、期待した成果を求める。いわゆる「エンジニアリング」の手法。これに対して「ブリコラージュ(bricolage)」という手法がある。「器用仕事」とも訳されるけれど、あり合わせのもの、現在手元にあるものを本来とは違う用途で使用してでも、なんとかしようという手法だ。こういう仕事をする人を「ブリコルール(bricoleur)」と呼ぶ。エンジニアの手法を「原理主義」と呼ぶのであれば、ブリコラージュの手法は「機能主義」といえる。

 条件が揃ったからやる、揃わないからやらない。そういう原理主義では現実は少しも変わらない。他者に対する寛容性や脇道に逸れることを受け止める柔軟性も生まれない。だから「あれがない、これがない」と現状の不足を嘆き行動を留保するのではなく、変革を必要としている現実を今あるもので変えていく。もちろん、そういった手法には必然的に「穴」も「隙間」も多く存することになるが、これこそがより多くの他者をその運動に巻き込んでいく原動力となるのだ。

 平たく言えば「俺が手を貸してやらないとなぁ」とか「ここはこうすればいいんだよ」と思ったり言ったりする「隙間」があるということこそが運動を広範な人々に浸透させていく鍵ということだ。それは「この取り組みには『私』の力が必要だ」という自覚となって「私たち」に還元されていく。参加した人々がこうした自覚を持っている活動や組織は思いのほかしぶとい。

 今私たちの手元にあるリソースを最大限活用する手法、ブリコラージュが私たちの未来を一歩ずつではあるけれど確実に切り拓いていくのだと強く感じた会議だった。