格差はなくならないから…

 「自由」というのは実に響きのいいことばである。しかし英語でいう自由には二通りの表現がある。一方は「liberty」であり、もう一方は「freedom」である。libertyが様々な闘い・運動を通じて手に入れた自由であるのに対して、freedomは漠然と存在している自由、自然発生的な自由を指す。転じてfreeという単語にはどんな束縛や課題も課せられていない「~がない」という意味が含意される。「シュガーフリー(砂糖不使用)」とか「タックスフリー(免税)」などといわれるのがこの用法だ。

 ゆえに、「自由競争」という単語から日本人の多くが想像するのは不正や不公平なしに競争が行われる肯定的なイメージであろう。本当にこうした平等な競争が用意されているのであれば、勝者は自らの勝利に胸を張っていいし、敗者は自らの努力や能力の不足を反省して嘆けばいい。

 だが、しかし、そもそも資本主義社会において人間は理念的には平等ではあるけれど、現実には不平等である。生まれ落ちたそのときから格差は存在している。一見平等である市場が用意されているが、スタートラインから走り始める人と、ゴール間近から走り始める人がいて、前者が後者に負けることを「自由競争」といい、敗者に「自己責任」が押しつけられるのが現代社会だ。

  だから、自由競争は強者に圧倒的に有利である。世の中のルールは常に強者がつくる。当然、強者は勝者になりやすく、弱者に逆転の可能性はほぼ残されていない。自由競争は強者・勝者が弱者・敗者に押しつけている一方的なルールであって、決して理想や正義ではない。そのことをしっかり見据えることが必要なのだと思う。

 格差はなくならない。だから強者のマインドセットを変革することが重要であるが、強者はそんなことするわけないので、強者が自らの勝利を声高に宣言することが憚られるような、必要以上の所有が卑しい行為と思われるような世論の構築が世の中を「よりまし」にするためには有効なのだと思う。