エルムは「商品」ではなく「人間」をつくる場

 エルムは民間企業として32年前に設立された。しかしその出発点、立脚点は非常に特殊だ。

 起業には大きく3つのパターンがあるのではないかと思う。ひとつは「こんなことをしたら儲かるのではないか」というビジネスチャンスを動機とした設立。ふたつめは「こんなことをやりたいんだ」という自己実現を動機とした設立。最後に「社会にはこんなことが必要とされている」という社会的課題解決のための設立。エルムは明らかに3番目に立脚している。つまり社会的課題の解決を民間セクターとして目指す。これをソーシャルビジネスと呼ぶ。こういった起業は昨今ではNPO法人を立ち上げるのが主流だが、当時の日本にそういった土台は存在しなかった。

 

 そもそも「儲かるはず」という分野ではなく、「儲からないから民間が手をつけない」という市場的荒野に設立されたので、民間企業であるにもかかわらず「プロフィット」ではなく「ミッション」を優先させて市場に存在することになる。これがエルムの長年に渡る苦悩を生み出したとともに、大いなる可能性を包含していると私は分析している。

 

 こうした設立プロセスが故に、エルムは社会的課題の解決というコンテンツ(内容)を学習塾やラーメン屋というコンテナー(容れ物)に載せているという「ねじれ」を宿命づけられることになる。学習塾やラーメン屋というのは既存の市場であり、競合他社がすでに多く存在している。そういった市場では「成績が有意に上がる」とか「文句なしにうまい」といった評価軸もすでに確立されている。だから市場で輝きを放ち、生き残るためには「ねじれ」の自覚がないままコンテンツの違いを大声でがなり立てるだけではダメで、既存の評価軸でも高い評価を得ること、もしくは新たな評価軸を提示し市場に了承を得ること、またはどちらの評価軸でも高い評価を得ること、という戦略的選択が必要になってくる。

 

 先日ある知人から以下のような言葉をいただいた。「道徳なき経済は罪悪である。経済なき道徳は寝言である」二宮尊徳翁の言葉であるが、これは私たちの課題を的確に言い表しているように思う。つまり端から見ればエルムの主張は未だ「寝言」でしかないと感じる人も少なくないのだ。厳しい道のりだが、ソーシャルビジネスの担い手が市場経済の中で生き残るための理路をエルムは追い求めていかなくてはならないのだと思う。

 

 だがしかし、エルムの歩みは遅い。なぜなら、会社の意思決定には全員平等、全員参加の原則が貫かれているからだ。経営者にはどのような独占的権限も与えられておらず、全員が平等な立場でゼロから議論する。そして意思決定は市場での成功ではなく、関係者(子ども、若者、顧客、スタッフ)の利益最大化を基準に決定される。こうして決められた意思には「それによってもたらされる快も不快も共有する」という合意ができる。これは民主主義のシステムとよく似ていると私は思う。民主主義が害悪でないように、「時間がかかる」ということも害悪ではない。なぜなら、私たちが扱っているのは、大量に生産し、失敗すれば廃棄すればいいような「商品」ではないからだ。私たちが日々対峙しているのは「人間」なのだ。利益とミッションを逆立ちさせてはならないし、商品と人間を混同してもならない。教育に市場原理を持ち込んではならないのだ。

 

 「商売」ではなく「教育」。それがエルムの原点。これを見失うことなく、それでも私たちの取り組みが持続可能なものであるような「賢さ」を身につけることを今年の大きな課題としていきたい。

 

「にれのき」2016年1月号より全文掲載