大事なことは、たいてい面倒くさい

 我が家の娘が今年の3月にエルム中学部を卒業した。エルムは塾なのに「卒業式」があって、それは子どもたちひとりひとりが自分のことばでエルムで学んだことを語り、保護者ひとりひとりが、我が子への思いをことばにするという、奇跡を目の当たりにしているかのような素敵なセレモニーなのだけれど、その話はとても紙面に収まらないので、今日はもう少し個人的な「父娘」のことを。

 卒業式の帰り道、娘に「エルム生活はどうだった?」と質問すると、「なんだかんだ面倒くさいことも多かったけど、エルムっていいよね」というお答え。私は「エルムっていいよね」の前に「面倒くさい」っていう表現があったことで、娘をエルムに預けたことは正解だったなと思った。なぜなら、娘は「面倒くさいことが多かった」からこそ、エルムを「いいよね」と思ったのだから。

 思うようにいかないとき、人間は「面倒くさい」と思う。それは時間のかかることだったり、手間のかかることだったり……。それでもやるのは、「きっと面倒くさいことには価値がある」と思うから。逆に言えば、「価値あることっていうのは、面倒くさいものなんだ」と、なんとなくわかっているから。私はそう思う。

 娘が「面倒くさい」と言っていたことの内実は、おそらく勉強と人間関係であろうと思う。どちらも恐ろしく面倒だけれども、それを凌駕するほどの価値があるものだ。社会に出て二十年以上経つ私が、生き抜くために本当に大事なことだと痛感しているのは、「学ぶ」ということと「仲間の存在」であるのだから。

 エルムは娘に「面倒くさいこと」から逃げずに向き合うということを教えてくれた。「面倒くさい」という感情を経由しなければ到達し得ない充足感や達成感を教えてくれた。それは、エルムの教員にとっても、気が遠くなるほど「面倒くさい」ことだったに違いない。彼らが「面倒くさいこと」の大切さと、「面倒くさいこと」への向き合いかたを身をもって示してくれたこと、そして、そういう大人が娘の伴走者として存在してくれていたことは、間違いなく娘のこれからの人生において大きな財産になると私は思う。

 これからも娘には、迷ったときには「面倒くさい」と思うことを選択し続ける人であってほしいと思うし、エルムには、そこに通う子どもたちにとって、いつでもとことん「面倒くさい」存在であってほしいと思う。そんなことを偉そうに言う私は、娘に嫌われたくないので、なるべく「面倒くさくない」父親でいようと思っていたりするのですが……(笑)。教員のみなさん、ありがとうございました。そして愛娘よ、おめでとう。

 

salto mortale より全文掲載