働くってさ…

今の仕事や収入…。そういう「カネにまつわること」に対して不満を口にする人が多い。圧倒的に多い。お酒を飲んだりしたら、ほぼ全員「うらめしげ」な顔になる。みんながみんな不幸せなの?と思ってしまいます。

唐突ですけど、幸せってなんでしょうか?年収?もちろん、所得の多寡は仕事を選ぶうえで重要だという人も多いでしょう。所得の多寡を基準にする人は「たくさん稼いで欲しいものは何でも買える豊かな暮らしをすることが幸せ」という価値観が「働く」ということの基本です。

でも、どうしても僕には「欲しいものが何でも買える」ということが幸せになるための条件とは思えないです。むしろ、自分にとって本当に大切なものはいくら札束を積もうとも、どれだけスキルを上げようとも、自分の力だけでは手に入らないと思っています。どうしてそう思うのかは、また別の機会に。

そもそも「欲しい」という欲求は「私には何かが欠乏している」という不足感と同意です。満たされていれば欲しがらないわけですから。だから、「あれもこれも欲しい」という人は、決して未来への希望に突き動かされているわけではなく、自分の中の欠損を埋めるために行動している。つまり、「本来自分が手にできているはずのものが手中にない」という欠乏感がその人の振る舞いを規定しているのではないか。僕にはそう思えます。

「欲しいものが手に入らないのは所得が少ないからだ」という料簡は必然的に「所得が少ないのは能力がないからだ」もしくは「能力が正当に評価されていないからだ」というピット・フォールに陥ります。そしてその落とし穴は「自分が不幸せなのはお金がないからだ」というとても浅薄な結論に帰結します。こうしてお金は人間の幸福感を左右してしまうのです。

「欲しいものはすべてお金で買えるはずだ」という狭隘な価値観から抜け出せなければ、この無限サイクルに絡め取られ、不足感は不満と不安の大きさを係数にしてドライブし続けます。

こうした不足感を起動するスイッチは「他者との比較」であると私は思います。「貧乏」は「金持ち」がいなければ成立しない概念ですから。「家」「車」「恋人」…。みんなと同じものを所有すること、さらにみんなよりもひとつでも多く所有すること。これが「所有」を「幸せ」と定義する人の度量衡です。しかし、みんなと同じものを所有することが幸せになるためのミニマム・アクセスだと信じ、それを渇望する人が増えれば増えるほど「所有していなければ幸せになれないもの」の数も増え続けます。

「みんなと同じ」であることは、「安心」をもたらすかもしれないけれど、決して「私」に「快」を運んできてはくれません。不足を訴え、不満と不安に支配されている限り、「満たされている」という幸せへの理路は開けないからです。ならば、「みんなと同じであること」を基準に生きるのをやめればいい。所得の多寡は人間の価値、労働の価値を定量的に表す唯一のモノサシではないと考えればいいのです。

僕は人間の幸福感を担保しているのは「誰かの役に立っている」という人間にとって極めてプリミティヴな「快」であると思っています。「誰かの役に立っている」という「私」に対する有用感は「だから私は生きる」という「生」への肯定感を支えます。この肯定感こそが「幸せ」の淵源、「働く」ということのもっとも基本的な「理由」だと思うのです。