身の程をわきまえる

 みなさん、お祝いのメッセージありがとうございます。齢(よわい)45になりました。最近は抜け毛の量に追いつかないほど肩の力も抜けてきまして、仕事中に「バカヤロ~!」などと怒鳴ることもなくなり、沸点高めの穏やかな生活をしています。とんがりすぎて周囲を殺伐とした雰囲気にしていた僕を知っている人には信じられないかもしれないけれど、本当なんです。

 こんな穏やかな生活を支えているのは、いい意味での諦めなんじゃないかと最近思っています。「なかなか思い通りにはいかないな」ってことが受け入れられるようになった。「世界を変えることはできない」という事実を受け入れつつ、「地元ぐらいなら変えられるかもしれない」というスタンス。「人類は救えないけれど、がんばれば家族は守れるはずだ」というような自己評価。なんにしろ、自分の能力に対する評価と期待値が定まってきたということなんじゃないかなと思うんです。自己評価と他者評価のギャップが縮まったとも言えます。ギャップが大きいと人間はイライラしますからね。そして大概は他者評価のほうが正しい。だから自己評価を自尊心が折れないギリギリのところまで他者評価に寄せていくことが必要なんじゃないかと思うんです。これは若いときにはなかなかできない。老いることも悪くないですね。

 こういうバランス感覚を「身の程をわきまえる」と言うのだと思います。身の程をわきまえると、自分の至らなさをオープンにすることができます。容姿や収入に対するこだわりもなくなる。背伸びするよりも地に足をつけるということに意識が向く。「僕にはできないことが山ほどある」と認めてしまうと、なんだか気分が楽になります。他人の至らなさにも寛容になります。そして、助けが必要な人には不思議と多くの援助が集まるものです。多くの人に支えられながら、自分の得意なことでお返しする。それでいいんだと思います。これからもみなさんの力をちょっとずつ拝借しながら、悪だくみを粛々と進めていきたいと思います。こんな盆暗をこれからもよろしくお願いします。