そんなこと訊かれてもね…

 中学生の娘から「何で勉強しなくてはならないのか」と剛速球を投げ込まれる。「そんなこと訊かれてもわからない」と率直に答える。まさかの見逃し…。一見無責任で頼りない返事であるが、私はこれが自分の身の丈に合った答えであろうと思っている。わからないものはわからないし、親らしく立派な答えをと張り切ってみたところで、おそらく娘の球を打ち返すことはできず、空振り三振だ。

 もちろん、私にとって学ぶことの意味は明解だ。それは楽しみであり、喜びでもあり、子どもたちを養うためには必須のものであり、他者との協働やコミュニケーションを円滑にし、よりよい社会を創りあげるためには欠かせないものだからだ。

 だから、私が「わからない」と言っているのは、「娘自身にとっての学ぶ意味」だ。私も若かりし頃、娘と同じような疑問を持っていた。それは大人や大人がつくりあげている社会から強制されているという感覚ゆえに不満や不信といったコンテクストで発露されていたように思う。

 こうした疑問を大人にぶつけたときの答えは、表現の差異はあれどおおむね二通りであった。ひとつは「将来役に立つ」という、子どもの君にはわからないけれど大人の私にはわかっているんだ。という語られ方をするものであり、もうひとつは「いやなこと、苦手なことにも向き合うことに意味がある」という精神論であった。

 社会に出て様々な経験を積んだ今となっては、この答えが紛れもない事実であったと思うし、そう諭してくれた親切な大人が私の周りにいたことに感謝しているのだが、まあ、当時の私にとっては「余計なお世話だな」という感想以上のものはなかったように思う。だから、私が同じことを娘に語ったところで、娘の感想も似たようなものだろう。

 こうした私の経験から洞察すると、おそらく学ぶことの意味を「わかる」というのは、年月と経験を積み重ねることでしか獲得し得ない「人間としての成熟」の為せる業なのであろうと思う。

 だから、私が娘に言えることは「なぜ学ぶ必要があるのかという問いを他者に投げかけている人間には、学ぶことの意味は理解できないんだよ」という事実だけだ。それを一言で済ませてしまうなら「そんなこと訊かれてもわからない」ということになるし、挑発的に言えば「そういうことを人に尋ねるということこそが、君が学ばなければならない理由だ」となる。

 ただ、肝心なのは「わからない」という言葉の後に「でも、私はあなたに学んでほしいと強く願っているよ」という一言をつけることなのではないかと思う。意味は伝わらなくても思いは伝わる。そう思うからだ。これなら、せめてポテンヒットは狙えるかもしれない。

ブリコルールを目指して

 先日のグループ会議で、現在全国的な広がりを見せ始めている「子ども食堂」の取り組みをエルムグループでもやってみたいという提案をした。入念なリサーチをして運営体制を構築して定期開催を提案。しかし、参加メンバーの反応は予想よりも薄い。この提案には全員が諸手を挙げて賛成してくれると思っていた私には意外すぎるリアクションだった。しかしほどなくその原因は判明した。それは私の提案に「隙間」がないからであった。「これが完成品ですがどうでしょう?」という提案を受けた場合、それを眺めることしか許されない相手の答えはふたつに絞られる。「yes or No」。そこに「こうしたらもっと良くなるんじゃないか」とか「こういうところには賛成しかねる」という提案が入り込む隙間はない。それは自身が主体的に関わる余地がないという判断をせざるを得ないということでもある。

 これは私がよくやってしまう失敗だ。ゼロから設計図を描き、思い描いた通りの作品をつくりあげ、期待した成果を求める。いわゆる「エンジニアリング」の手法。これに対して「ブリコラージュ(bricolage)」という手法がある。「器用仕事」とも訳されるけれど、あり合わせのもの、現在手元にあるものを本来とは違う用途で使用してでも、なんとかしようという手法だ。こういう仕事をする人を「ブリコルール(bricoleur)」と呼ぶ。エンジニアの手法を「原理主義」と呼ぶのであれば、ブリコラージュの手法は「機能主義」といえる。

 条件が揃ったからやる、揃わないからやらない。そういう原理主義では現実は少しも変わらない。他者に対する寛容性や脇道に逸れることを受け止める柔軟性も生まれない。だから「あれがない、これがない」と現状の不足を嘆き行動を留保するのではなく、変革を必要としている現実を今あるもので変えていく。もちろん、そういった手法には必然的に「穴」も「隙間」も多く存することになるが、これこそがより多くの他者をその運動に巻き込んでいく原動力となるのだ。

 平たく言えば「俺が手を貸してやらないとなぁ」とか「ここはこうすればいいんだよ」と思ったり言ったりする「隙間」があるということこそが運動を広範な人々に浸透させていく鍵ということだ。それは「この取り組みには『私』の力が必要だ」という自覚となって「私たち」に還元されていく。参加した人々がこうした自覚を持っている活動や組織は思いのほかしぶとい。

 今私たちの手元にあるリソースを最大限活用する手法、ブリコラージュが私たちの未来を一歩ずつではあるけれど確実に切り拓いていくのだと強く感じた会議だった。

超自我

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 品川区某所にあるゴミ屋敷に掲げられている張り紙。おそらくこの屋敷の住民が掲示したものなのだろうと思う。この紙を見ていて、ふとフロイトのいう「超自我」について思いを巡らせた。

おそらくこの屋敷の主人は自分の家がゴミ屋敷などとは思っておらず、こうしてゴミを他人の家に不法投棄するという非常識な行動に被害者として「いいかげんにしろ」と憤怒している。だが、しかし、この主人は自分の家そのものが近隣住民にとっては不法投棄そのものであり、加害者となってしまっているということに気づいていない。私はこれが「超自我」の為せる業と思ったのである。

フロイトは「人間は自由に思考しているつもりで、実は自分がどういうふうに思考しているのかをしらないで思考している」と言った。人間の脳には意識よりもはるかに広大な無意識の領域があり、自分に都合のいいことだけを意識に送り込む番人がいる。これが「超自我」だ。つまり、自分は自分自身の精神世界の主人公ではない。そういうことだ。

自分が「何ものであるか」なんてことは知らず、自分が為したことの意味や価値を他者からのメッセージとしてうけとることによってのみ人間は自分が何ものであるのかを事後的に知る。

このへんを勘違いしてしまうと「私が的外れなことを言っているということを私だけが知らない」という事態を招く。

エルムは「商品」ではなく「人間」をつくる場

 エルムは民間企業として32年前に設立された。しかしその出発点、立脚点は非常に特殊だ。

 起業には大きく3つのパターンがあるのではないかと思う。ひとつは「こんなことをしたら儲かるのではないか」というビジネスチャンスを動機とした設立。ふたつめは「こんなことをやりたいんだ」という自己実現を動機とした設立。最後に「社会にはこんなことが必要とされている」という社会的課題解決のための設立。エルムは明らかに3番目に立脚している。つまり社会的課題の解決を民間セクターとして目指す。これをソーシャルビジネスと呼ぶ。こういった起業は昨今ではNPO法人を立ち上げるのが主流だが、当時の日本にそういった土台は存在しなかった。

 

 そもそも「儲かるはず」という分野ではなく、「儲からないから民間が手をつけない」という市場的荒野に設立されたので、民間企業であるにもかかわらず「プロフィット」ではなく「ミッション」を優先させて市場に存在することになる。これがエルムの長年に渡る苦悩を生み出したとともに、大いなる可能性を包含していると私は分析している。

 

 こうした設立プロセスが故に、エルムは社会的課題の解決というコンテンツ(内容)を学習塾やラーメン屋というコンテナー(容れ物)に載せているという「ねじれ」を宿命づけられることになる。学習塾やラーメン屋というのは既存の市場であり、競合他社がすでに多く存在している。そういった市場では「成績が有意に上がる」とか「文句なしにうまい」といった評価軸もすでに確立されている。だから市場で輝きを放ち、生き残るためには「ねじれ」の自覚がないままコンテンツの違いを大声でがなり立てるだけではダメで、既存の評価軸でも高い評価を得ること、もしくは新たな評価軸を提示し市場に了承を得ること、またはどちらの評価軸でも高い評価を得ること、という戦略的選択が必要になってくる。

 

 先日ある知人から以下のような言葉をいただいた。「道徳なき経済は罪悪である。経済なき道徳は寝言である」二宮尊徳翁の言葉であるが、これは私たちの課題を的確に言い表しているように思う。つまり端から見ればエルムの主張は未だ「寝言」でしかないと感じる人も少なくないのだ。厳しい道のりだが、ソーシャルビジネスの担い手が市場経済の中で生き残るための理路をエルムは追い求めていかなくてはならないのだと思う。

 

 だがしかし、エルムの歩みは遅い。なぜなら、会社の意思決定には全員平等、全員参加の原則が貫かれているからだ。経営者にはどのような独占的権限も与えられておらず、全員が平等な立場でゼロから議論する。そして意思決定は市場での成功ではなく、関係者(子ども、若者、顧客、スタッフ)の利益最大化を基準に決定される。こうして決められた意思には「それによってもたらされる快も不快も共有する」という合意ができる。これは民主主義のシステムとよく似ていると私は思う。民主主義が害悪でないように、「時間がかかる」ということも害悪ではない。なぜなら、私たちが扱っているのは、大量に生産し、失敗すれば廃棄すればいいような「商品」ではないからだ。私たちが日々対峙しているのは「人間」なのだ。利益とミッションを逆立ちさせてはならないし、商品と人間を混同してもならない。教育に市場原理を持ち込んではならないのだ。

 

 「商売」ではなく「教育」。それがエルムの原点。これを見失うことなく、それでも私たちの取り組みが持続可能なものであるような「賢さ」を身につけることを今年の大きな課題としていきたい。

 

「にれのき」2016年1月号より全文掲載