費用対効果の先にあるもの

我が家の愛娘は、小学生の頃から今(高校)に至るまで、実に様々なしごとを引き受けてくる。だから、体育祭、文化祭、発表会などなど……。なにか行事があれば必ずと言っていいほど忙しくしている。つまりは一年中忙しそうにしている。おそらく、彼女が引き受けてくるのは「他にもやりたい人がたくさんいる」ような派手なしごとではなく、誰もやりたがらないような地味なしごとだ。「誰もやりたがらないようなしごと」というのは、それを引き受けても、面倒くさいだけで自分にはメリットがないとみんなが思うようなしごとだろう。娘も「だって他にやる人がいないから」と引き受けてくる理由をぼやいている。

「メリットがあるからやる」というロジックは、一見正しいと思えるけれど、大きな落とし穴があるのだと私は思う。それは「意味があるものには見返りがある、見返りがないものには意味がない」という費用対効果の論理、市場原理を全面的に「正しい」と認めることになってしまうということだ。


誰かが引き受けなければ、ひとつも前に進まない問題を前にしたとき、「それを引き受けると私にはどんなメリットがありますか」と値踏みする「市場原理の人」だけでは世の中は成り立たない。世の中には「誰も引き受けたがらないけれど、誰かが引き受けなければならないしごと」がたくさんある。それを「仕方がないなぁ」というぼやきひとつくらいで引き受ける人がどうしても必要だ。PTAの役員とか、マンションの自治会とか、職場のトイレ掃除とか、飲み会の幹事とか……。そもそもしごとというのは、それをやりたい人がいるから存在しているのではなく、それをやる人が必要だから存在している。そういう順番なのだ。

私は「費用対効果」を無視してしごとを引き受けてくる娘を誇らしく思う。なぜなら、彼女がしごとを引き受ける動機は決して「自分のため」ではなく、「誰かのため」だからだ。「誰かのため」が意味することというのは、たとえ見返りがなくても手を差し伸べてあげたい「誰か」が彼女には存在しているということだ。そんな「誰か」のいる人生というのは、きっと私がしごとで関わる多くの若者をひきこもりや問題行動に追いやってしまう「孤立」という人間存在の危機とは一番遠い場所にあるのだと思う。

私は娘が関わるどの場所に行っても、その関係者から「娘さんにはいつも助けられてます」「娘さんがいてくれてよかった」と言われる。その謝意こそが、人間の「生きる力」を支える「他者からの承認」であり、それは費用対効果を無視してグレーゾーンを引き受けた人間にしか得ることができない「思いもよらないご褒美」なのではないかと思っている。そのご褒美は私にもトリクルダウンして、なんにもしてない私をも幸せな心持ちにする。だから私は、娘や家族が「誰か」の力になれるのを助けるために、我が家のグレーゾーンを引き受ける。毎日皿を洗い、料理をつくる意味をそんなふうに考えると、家事がちょっとだけ楽しくなったりする……わけないか。

大事なことは、たいてい面倒くさい

 我が家の娘が今年の3月にエルム中学部を卒業した。エルムは塾なのに「卒業式」があって、それは子どもたちひとりひとりが自分のことばでエルムで学んだことを語り、保護者ひとりひとりが、我が子への思いをことばにするという、奇跡を目の当たりにしているかのような素敵なセレモニーなのだけれど、その話はとても紙面に収まらないので、今日はもう少し個人的な「父娘」のことを。

 卒業式の帰り道、娘に「エルム生活はどうだった?」と質問すると、「なんだかんだ面倒くさいことも多かったけど、エルムっていいよね」というお答え。私は「エルムっていいよね」の前に「面倒くさい」っていう表現があったことで、娘をエルムに預けたことは正解だったなと思った。なぜなら、娘は「面倒くさいことが多かった」からこそ、エルムを「いいよね」と思ったのだから。

 思うようにいかないとき、人間は「面倒くさい」と思う。それは時間のかかることだったり、手間のかかることだったり……。それでもやるのは、「きっと面倒くさいことには価値がある」と思うから。逆に言えば、「価値あることっていうのは、面倒くさいものなんだ」と、なんとなくわかっているから。私はそう思う。

 娘が「面倒くさい」と言っていたことの内実は、おそらく勉強と人間関係であろうと思う。どちらも恐ろしく面倒だけれども、それを凌駕するほどの価値があるものだ。社会に出て二十年以上経つ私が、生き抜くために本当に大事なことだと痛感しているのは、「学ぶ」ということと「仲間の存在」であるのだから。

 エルムは娘に「面倒くさいこと」から逃げずに向き合うということを教えてくれた。「面倒くさい」という感情を経由しなければ到達し得ない充足感や達成感を教えてくれた。それは、エルムの教員にとっても、気が遠くなるほど「面倒くさい」ことだったに違いない。彼らが「面倒くさいこと」の大切さと、「面倒くさいこと」への向き合いかたを身をもって示してくれたこと、そして、そういう大人が娘の伴走者として存在してくれていたことは、間違いなく娘のこれからの人生において大きな財産になると私は思う。

 これからも娘には、迷ったときには「面倒くさい」と思うことを選択し続ける人であってほしいと思うし、エルムには、そこに通う子どもたちにとって、いつでもとことん「面倒くさい」存在であってほしいと思う。そんなことを偉そうに言う私は、娘に嫌われたくないので、なるべく「面倒くさくない」父親でいようと思っていたりするのですが……(笑)。教員のみなさん、ありがとうございました。そして愛娘よ、おめでとう。

 

salto mortale より全文掲載

こんな日本に誰がした

今日は参議院議員選挙の投票日である。

私は選挙については選挙権を与えられて以来、皆勤賞である。学校も習い事も仕事も身勝手な都合で休むこともあったけれど、選挙だけは欠席したことがない。

私が必ず投票に行く理由は「現状に不満がある」からだ。私たちの社会が今のままでいいとは思えないから、その意思表示のために一票を投じる。そして、その一票が私の責任であると思うからだ。

「こんな日本に誰がした」という糾問に「はい、私です」と答えるのが大人だ。そういう責任を引き受けるという覚悟に対して選挙権は与えられている。私はそう理解している。

もちろん、投票行動は権利であるので、それを行使するかどうかは個人の自由である。しかし、少なくとも選挙権を行使しない人に「こんな日本に誰がした」と発問する権利が与えられることはない。

ピンチはチャンス…じゃないよ、ゼッタイ。

 

「ピンチはチャンス」とか言う人がいる。
いやいや、「ピンチはピンチでしょ」と私は返す。

 
そもそも「チャ~ンス!」とか言って打ち返せるようなピンチはピンチとは呼ばない。本当のピンチを前にしたら、打ち返すことよりも、回避することができるか、回避できないとしたら、どれだけ受けたダメージを少なくするか、を考えるほうが圧倒的に正しい。どんな状況でも果敢に立ち向かう「少年ジャンプの人」の気概は買うけれど、そういう人は早死にする。
 
同じように、「難しいことを簡単に」と言う人もいる。
いやいや、「難しいことは難しいでしょ」と私は返す。
 

自分はその場に留まったままで、説明を乞う人よりも、難しいことをわかるようになろうとする人のほうがきっとしぶとい。

 リスクの見極めと世界に向き合う姿勢。先の読めない世界で「私」の生存率を上げるためには、このふたつがとても大事なことだと思う今日この頃。

働くってさ…

今の仕事や収入…。そういう「カネにまつわること」に対して不満を口にする人が多い。圧倒的に多い。お酒を飲んだりしたら、ほぼ全員「うらめしげ」な顔になる。みんながみんな不幸せなの?と思ってしまいます。

唐突ですけど、幸せってなんでしょうか?年収?もちろん、所得の多寡は仕事を選ぶうえで重要だという人も多いでしょう。所得の多寡を基準にする人は「たくさん稼いで欲しいものは何でも買える豊かな暮らしをすることが幸せ」という価値観が「働く」ということの基本です。

でも、どうしても僕には「欲しいものが何でも買える」ということが幸せになるための条件とは思えないです。むしろ、自分にとって本当に大切なものはいくら札束を積もうとも、どれだけスキルを上げようとも、自分の力だけでは手に入らないと思っています。どうしてそう思うのかは、また別の機会に。

そもそも「欲しい」という欲求は「私には何かが欠乏している」という不足感と同意です。満たされていれば欲しがらないわけですから。だから、「あれもこれも欲しい」という人は、決して未来への希望に突き動かされているわけではなく、自分の中の欠損を埋めるために行動している。つまり、「本来自分が手にできているはずのものが手中にない」という欠乏感がその人の振る舞いを規定しているのではないか。僕にはそう思えます。

「欲しいものが手に入らないのは所得が少ないからだ」という料簡は必然的に「所得が少ないのは能力がないからだ」もしくは「能力が正当に評価されていないからだ」というピット・フォールに陥ります。そしてその落とし穴は「自分が不幸せなのはお金がないからだ」というとても浅薄な結論に帰結します。こうしてお金は人間の幸福感を左右してしまうのです。

「欲しいものはすべてお金で買えるはずだ」という狭隘な価値観から抜け出せなければ、この無限サイクルに絡め取られ、不足感は不満と不安の大きさを係数にしてドライブし続けます。

こうした不足感を起動するスイッチは「他者との比較」であると私は思います。「貧乏」は「金持ち」がいなければ成立しない概念ですから。「家」「車」「恋人」…。みんなと同じものを所有すること、さらにみんなよりもひとつでも多く所有すること。これが「所有」を「幸せ」と定義する人の度量衡です。しかし、みんなと同じものを所有することが幸せになるためのミニマム・アクセスだと信じ、それを渇望する人が増えれば増えるほど「所有していなければ幸せになれないもの」の数も増え続けます。

「みんなと同じ」であることは、「安心」をもたらすかもしれないけれど、決して「私」に「快」を運んできてはくれません。不足を訴え、不満と不安に支配されている限り、「満たされている」という幸せへの理路は開けないからです。ならば、「みんなと同じであること」を基準に生きるのをやめればいい。所得の多寡は人間の価値、労働の価値を定量的に表す唯一のモノサシではないと考えればいいのです。

僕は人間の幸福感を担保しているのは「誰かの役に立っている」という人間にとって極めてプリミティヴな「快」であると思っています。「誰かの役に立っている」という「私」に対する有用感は「だから私は生きる」という「生」への肯定感を支えます。この肯定感こそが「幸せ」の淵源、「働く」ということのもっとも基本的な「理由」だと思うのです。

身の程をわきまえる

 みなさん、お祝いのメッセージありがとうございます。齢(よわい)45になりました。最近は抜け毛の量に追いつかないほど肩の力も抜けてきまして、仕事中に「バカヤロ~!」などと怒鳴ることもなくなり、沸点高めの穏やかな生活をしています。とんがりすぎて周囲を殺伐とした雰囲気にしていた僕を知っている人には信じられないかもしれないけれど、本当なんです。

 こんな穏やかな生活を支えているのは、いい意味での諦めなんじゃないかと最近思っています。「なかなか思い通りにはいかないな」ってことが受け入れられるようになった。「世界を変えることはできない」という事実を受け入れつつ、「地元ぐらいなら変えられるかもしれない」というスタンス。「人類は救えないけれど、がんばれば家族は守れるはずだ」というような自己評価。なんにしろ、自分の能力に対する評価と期待値が定まってきたということなんじゃないかなと思うんです。自己評価と他者評価のギャップが縮まったとも言えます。ギャップが大きいと人間はイライラしますからね。そして大概は他者評価のほうが正しい。だから自己評価を自尊心が折れないギリギリのところまで他者評価に寄せていくことが必要なんじゃないかと思うんです。これは若いときにはなかなかできない。老いることも悪くないですね。

 こういうバランス感覚を「身の程をわきまえる」と言うのだと思います。身の程をわきまえると、自分の至らなさをオープンにすることができます。容姿や収入に対するこだわりもなくなる。背伸びするよりも地に足をつけるということに意識が向く。「僕にはできないことが山ほどある」と認めてしまうと、なんだか気分が楽になります。他人の至らなさにも寛容になります。そして、助けが必要な人には不思議と多くの援助が集まるものです。多くの人に支えられながら、自分の得意なことでお返しする。それでいいんだと思います。これからもみなさんの力をちょっとずつ拝借しながら、悪だくみを粛々と進めていきたいと思います。こんな盆暗をこれからもよろしくお願いします。

格差はなくならないから…

 「自由」というのは実に響きのいいことばである。しかし英語でいう自由には二通りの表現がある。一方は「liberty」であり、もう一方は「freedom」である。libertyが様々な闘い・運動を通じて手に入れた自由であるのに対して、freedomは漠然と存在している自由、自然発生的な自由を指す。転じてfreeという単語にはどんな束縛や課題も課せられていない「~がない」という意味が含意される。「シュガーフリー(砂糖不使用)」とか「タックスフリー(免税)」などといわれるのがこの用法だ。

 ゆえに、「自由競争」という単語から日本人の多くが想像するのは不正や不公平なしに競争が行われる肯定的なイメージであろう。本当にこうした平等な競争が用意されているのであれば、勝者は自らの勝利に胸を張っていいし、敗者は自らの努力や能力の不足を反省して嘆けばいい。

 だが、しかし、そもそも資本主義社会において人間は理念的には平等ではあるけれど、現実には不平等である。生まれ落ちたそのときから格差は存在している。一見平等である市場が用意されているが、スタートラインから走り始める人と、ゴール間近から走り始める人がいて、前者が後者に負けることを「自由競争」といい、敗者に「自己責任」が押しつけられるのが現代社会だ。

  だから、自由競争は強者に圧倒的に有利である。世の中のルールは常に強者がつくる。当然、強者は勝者になりやすく、弱者に逆転の可能性はほぼ残されていない。自由競争は強者・勝者が弱者・敗者に押しつけている一方的なルールであって、決して理想や正義ではない。そのことをしっかり見据えることが必要なのだと思う。

 格差はなくならない。だから強者のマインドセットを変革することが重要であるが、強者はそんなことするわけないので、強者が自らの勝利を声高に宣言することが憚られるような、必要以上の所有が卑しい行為と思われるような世論の構築が世の中を「よりまし」にするためには有効なのだと思う。